和道場

<事後レポート>技術同友会第594回例会「経営と茶道」講演終了

令和5年3月17日、技術同友会第594回例会にて、現代の茶道会をリードし利休の研究における第一人者である大日本茶道学会会長 田中仙堂による「経営と茶道」と題した講演が行われました。同講演では、茶道と経営がかけ離れたものではないということを、「歴史」、「マネジメント」、「習い事で名を持つこと」の三つの切り口から説明しました。

1つ目の切り口である「歴史」からみると、大陸で飲料として発達した茶をそれぞれの時代の喫茶方法の最新形態を導入していることから、のちのイノベーションの連続ということが指摘されています。喫茶の伝来からその後の展開と継承について、鎌倉・室町時代、戦国時代、江戸時代、近代のそれぞれの時代ごとの、茶文化の扱われ方を解説しました。平安時代に唐代・煎茶法を、鎌倉時代に宋代・点茶法を、江戸時代に明代・淹茶法を導入しました。現代の茶道に通ずるのは、宋代・点茶法なので、それにかぎっても、室町時代の武家が、公家に対抗できる自分たちの強みが発揮できる文化として、唐物を飾って喫茶を尊重してからも、イノベーションが連続しています。戦国時代では、戦国時代に日本を訪れた宣教師は、日本独自の茶のあり方として、「客人がどんな階層や身分の高い人であっても、人がどんな階層や身分の高い人であっても、たとえ天下殿であろうとそれでもてなしをする。」(『日本教会史 』)点を指摘しています。身分階層を越えた交流の手段として喫茶を利用した茶会は、三好政権下で成立したものと考えられますが、その後、織田信長が茶会をメディアとして発見、豊臣秀吉は茶会をメディアとして利用(「禁中茶会」、「北野大茶湯」)するなど、もてなしだけに留まらない茶道の展開について取り上げています。江戸時代になると、喫茶は、身分階層を超えた交流の手段として利用されると同時に、信長や秀吉が茶席を主催した伝統が引き継がれ、二代秀忠、三代家光と徳川将軍自ら茶会を主催しました。そして四代家綱の時代に数寄奉行が組織されることによって、大名庭園の文化を生み出されました。

幕藩体制が崩壊した後は、殿様から数寄者(元勲・産業人など、茶道を生業としない茶道愛好者を専門の茶人と区別するための名称)に担い手は代わります。近代数寄者たちの茶会は、財閥の系統を越えた交際の機会を提供したことが実証されており、彼らが愛好した道具は、現在では、数寄者が創立した私立美術館に残されることになりました。近代の数寄者の時代を終わらせたものは、戦後の税制改革であり、財産税は、華族だけではなく、数寄者にも打撃与えました。このことから、経営者を茶道から遠ざけたのは、茶道の内実ではなく、税制改革という外的な要因であったということを解説しました。

 

2つ目の切り口である「マネジメント」については、茶会の運営における3つのマネジメント(リスク・マネジメント、セルフ・マネジメント、チーム・マネジメント)を提示して、経営との親和性について説明しました。茶会を運営することはまさに、飲食物を提供する等のリスクを管理すること(リスク・マネジメント)、自分の心身を整えていくこと(セルフ・マネジメント)、そして、茶会に関わる多くの人々の協同作業を実現すること(チーム・マネジメント)というマネジメントであり、これは経営にも共通して考えることができます。

3つ目の切り口である「習い事で名を持つこと」については、呪術的な観点から宗教的な観点、封建制度における意味合いを踏まえながら、現代的な意味合いについて解説しました。また、習い事における茶道の特徴として、身体性、社交性、広範囲の文化性の3つを、バランスよく兼ね備えた総合力が求められることが挙げられました。これは、ゼネラリストとして、対人関係を含めた感性を磨くことにもつながるので、経営やビジネスにおいても通ずるのではないかと解説しています。 最後に、茶道は経営者にとって意味のない活動となったわけではなく、現代では日本文化に親しみ、人間的な実質を磨く場としての茶道の用法を提示しました。参加者からは、「茶道について、敷居が高いと感じていたが理解を深める良い機会だった」、「習い事で名前を持つことについて、自分自身を客観視するという意味合いがあることに納得した」等の意見や感想なども寄せられ、充実した会となりました。