和道場

「おもてなし」を越えて

東京オリンピック招致をきっかけに、巷にもてはやされた「おもてなし」には、浮ついたところがあったのではないか。人をもてなすのは、日本だけのことなのか、もてなしにおいて、注意することは何か、と問いかけていくことで、私たちが人との交わりで重視すべきことを見直していきたい。

おもてなしの相手さまざま

危うさを感じた出来事

東京オリンピック招致の決め科白となった「お・も・て・な・し」が、巷にあふれた時に、私は、危うさを感じていた。

もてなしをホスピタリティととらえれば、それは日本だけの話ではないからだ。それをあたかも日本にしかないように語ったり振る舞ったりしたら、反発されるではないか?そんな私の懸念を他所(よそ)に、茶道関係者は、「おもてなし」といえば茶道だと舞い上がってしまっていた。

東京オリンピック・パラリンピックは、観客を入れずに行われた。訪日の機会を逃したと思った人々が、今後来訪する時に備えて、今一度「もてなし」の特徴を掘り下げていきたい。

「おもてなし」は、他人に対して心を込めて接客や接待やサービスとすることとして使われている。

滝川クリステルさんは、東京で何かをなくしても、ほぼ確実に戻ってくる、とプレゼンした。何がどれくらいの確率で戻ってくるかの議論は別にして、落とし物を届け出てくれる人はいる。その人たちは、落とし物を見た時に、「落とした人は困っているだろう」という判断にたって行動しているのではないか。   

おもてなしは、相手の気持ちを推し量ることから成り立っている。それを、「共感性をもとにした予測にもとづく配慮」と抽象化しておこう。

このプレゼンに対して、東京でお財布を落としたけれども、現金を抜き取られて、カードやIDだけ戻ってきた、という外資系金融マネージャーからの体験もネット上には寄せられていた。

それに対して、カードやIDは、使い道がないから戻ってきたのだろうとのコメントも追加されていた。

「拾った現金を使っても不正使用はばれないが、カードをつかうと不正がばれる恐れがあるから手を付けないでおこう」と考えるのも「予測にもとづく配慮」ではある。

ただし、考えているのは、自分の身の安全であって、相手のことではない。この例は「もてなし」のポイントが、「共感性をもとにした予測」になっているかどうかということを浮き彫りにしてくれる。

というのは、「落とした人」が、見ず知らずの誰かではなく、身内や知り合いであったらと考えてみていただきたい。「困っているだろう」と感ずる気持ちは高まってくるのではなかろうか。どれくらい共感するか、その度合いは人間関係によって違ってくる。

おもてなしの前提

「おもてなし」と「お」をつけて使われるのは、客をともてなす側という人間関係が想定とされており、プレゼンでは、客は、世界からの来訪者、もてなす側は東京という暗黙の了解があったからだろう。

日本のもてなしはきめが細かいと言われる。

細かいところまで配慮が行き届いて、気が利いていることのたとえとして、「かゆいところに手が届く」という言葉が使われることを手掛かりに、日本で期待されるもてなしのあり方を考えてみよう。

背中を搔いてもらうという状況よりも、肩をもんでもらう、マッサージをしてもらうという状況の方が、現代人には想像しやすいかと思う。その場合、凝っているツボの位置を相手に細かく指示しなければならなかったら「かゆいところに手が届く」と評価するであろうか?何も言わずに、ツボを見つけて押してくれた場合を、「かゆいところ手が届く」状態として評価していると思う。

その理由は、「気が利いている」との評価は、なにも指示しなくても自分たちの意図を先取りして行った場合に与えられる評価であるからだ。

指示をしなくてもこちらの要望を察知して行ってくれることに対して、気が利いたもてなしとして日本で評価される理由を整理していこう。

そもそも、指示がなくても相手の要望を察知できる前提としての相手と文化的背景を共有あるいは、十分に理解されていることが、不可欠である。しかし、日本で日本人同志のもてなしに浸っていると、その前提条件の存在を忘れてしまいがちである。

幸い、イスラム圏の人々に、豚肉を代表とするハラルでないもの(ハラム)を提供してはいけないということは周知されるようになってきた。そこから、自分たちが良いと思っているものであっても、相手は必ずしも良いとは思っていないという可能性にまで、想像力を広げていくことが、異文化交流には不可欠になってくる。

「気が利く」という行為は、抽象化すれば、相手が求めていると思ったことを相手に無断で行うことでもある。何も言わないでも私が求めていたことを行ってくれてありがとうという反応を期待したいところであるが、「私が頼みもしていないのに何で勝手に行ったのだ」という反応もあり得ないわけでなはない。普段私たちがその可能性を考えずにすむのは、「相手が好意をもって行ったことならば結果はどうであれ無下に否定してはいけない」という暗黙のうちの合意が、広く共有されているからであろう。

しかし、そのような前提がいつでもどこでも通じるわけではない。

「おもてなし」に関して私の感じた危うさの正体は、第一に、無前提に誰にでも、「お・も・て・な・し」を行っても上手くいかない場合が出現するのではないか、ということであった。

著者紹介:田中仙堂

公益財団法人三徳庵 理事長/大日本茶道学会 会長。

著書に『近代茶道の歴史社会学』(思文閣出版社)、『茶の湯名言集』(角川ソフィア文庫)、『岡倉天心「茶の本」を読む』(講談社)、共編緒に『講座 日本茶の湯全史 第三巻 近代』(思閣出版)、『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』(共著淡交社)、『茶道文化論 茶道学大系 第一巻』(淡交社)、『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(文春新書)など多数。